こんにちは、リュウです。
今日は僕らの生活内で何度も遭遇する「選択」についてのお話です。
僕は普段はNPO法人とその下部事業所「就労継続支援B型」の運営をしています。
また、その中で「相談業務」も行っているわけですが。
こんなカンジの相談がよくあるわけです。
今回はこんなお悩みが来た際の僕の回答と、どの様に考えていけば良いのかについて書いていきます。
僕らは1番マシなのを選べるにすぎない
上のようなお悩み相談はよくあるのですが、結局は「自分で決める」ことが原則。
そして自分で決めてもらう際には「今ある選択肢で1番マシな選択をできるにすぎない」のです。
これらについて以下から見ていきましょうか。
僕らの「選択の自由」は悩みのタネにもなりえる
僕らの生活内では非常に多くの「選択」の機会があります。
これは喜ぶべきことでありますが、同時に悩みのタネにもなります。
どれを選ぶべきか、どれが答えとしていいのかなんてことを考えますからね。
色々と考えているうちに悩みが大きくなり、相談へ。
これは実に当たり前の過程を通っていると言えます。
悩みの過程についてみてみる
さて当たり前の過程であると書きましたが、僕らは悩みに対してどんな反応をしているのか。
それについても少し見ておきましょう
かんたんにキーワードだけで書くと以下のような感じになるかなと。
コレはあくまでも僕の相談をうけての経験則で書いているので別に専門的な用語ではありません。
ただ、僕に相談しに来る人は大抵このような過程を通っています。
過程1:発生
発生は前述したように「悩み」の発生段階ということですね。選べることは良いことだけれども、逆に悩みのタネにもなるという。もちろん、その「悩み」の性質上選択できるような状況では無いということも時にはありますが、今回はあくまでもそういった状況とは違うことを想定しています。
過程2:思考
2つめは思考です。起きた悩みに対して色々なことを考える過程です。「嫌だな」とか「どうやって解決しよう?」とか色々なことを考えますね。案外、ここの部分が今後の結果に大きく左右する過程になります。詳しくは後ほど。
例)一人暮らしを始めることになった → 「不安だ」「どんな家が良いかな?」
税金の申告が必要になった → 「めんどくさい」「どんな方法があるかな?」
過程3:模索
思考した後には模索に入ります。模索というのは「手探りで探すこと」です。つまり情報や手がかりの無いまま探し回ることと言えます。この過程は人によっては「模索」ですが、相談などをして「手探りではない」ということもあるため一概に「模索」とは言えないことも。あくまでも”一般的には”ということです。
例)一人暮らしを始めることになった → 思考 → 手段を見つける「アパート」「下宿」 等
税金の申告が必要になった → 思考 → 手段を見つける「税理士」「家族に依頼」 等
過程4:解決
模索した後に見つけた手段をとる段階です。ここで解決できればここまで。「悩み」とそれに対しての反応の過程は終了です。ただ、ここで新たな「悩み」が生まれれば最初の「過程1」からまた始まることとなります。悩み疲れたという人はここで「悩み」に戻るためです。ループし続けるので「悩み」への対処は大変なんですよね。
例)一人暮らしを始めることになった → 思考 → 模索 → 解決「家が見つかった」「契約できた」 等
税金の申告が必要になった → 思考 → 模索 → 解決「税理士が申告」「夫・妻が申告」 等
ここまで過程を見ればわかるように、僕らはあまり意識しないうちにこのような過程を経ているわけです。
「思考」と「模索」が相談どころ
過程を見てくると分かる人もいるかと思いますが、人が相談するのは「思考」と「模索」の段階です。
「思考」部分で相談する場合は、その気持ちを共有したいという理由が多いです。
「模索」部分での相談は、必要な情報を集めたり整理したいときなどに相談することが多いですね。
決めるのは本人
「思考」も「模索」もどちらであろうとも決定するのは自分です。
なぜなら、本当に解決したいと思うのは自分だからです。
他人ではありません、自分です。
色々な場面で、「どっちが良いと思いますか?」と聞かれますが、はっきり言えば相談された内容で僕に不利益があることは殆どありません。
良く言えば僕は「中立」、悪く言えば(というか、リアルな話)「僕にはどうでもいい話」なのです。
こんな言い方をすれば語弊があるかもしれませんが、世の中はそんなものなのです。
最終的にどんな選択をしても自分に関係なければどうでも良い話です。
痛みを伴わない選択だからです。
なので自分に関係のない話についての決定は「真剣味」にかけるのです。
お互いに真剣味にかける
自分で選択をしないということは自分のことを放棄しているということ。
そんな人に物事をうまく解決できるはずはありません。
また、そんな人は失敗しても他人のせいにすればいいので解決がうまくいかないことも多いです。
「失敗は自分のせいじゃなくて、あの人がこの選択をしたからだ。」
そんなことを言って逃げます。
本当に解決したいのであれば自分で選択して、諦めて責任持って解決しろという話です。
嫌なら解決しないで悩んでいればいい話。
逆もしかりで、他人の選択すべきところを変わりに選んであげたところでうまくいくことは無いです。
最初はうまく言ったとしても失敗した時に責任を押し付けられます。
そして責任を押し付けられることを知っている相手は真剣に自分がすべき解決のための行動を取りません。
そんなことに付き合うだけ僕らの時間の無駄です。
やめましょう。
本当の解決を本人が望まなければ何も始まらない
ここまでの内容をただ読むだけだと、まるで「やる気の無いヤツの相談なんてやめてしまえ」的な内容に捉えられかねないのでここで一度確認しておきましょ。
悩みと反応は一連の流れがあるんでしたよね。過程というやつです。
そして「思考」、「模索」の段階で相談に来ることも。多くなる相談傾向も見ました。
「思考」では自分の気持ちの共有
「模索」では情報収集や整理
そして選択はあくまでも「自分」ということ。
ここまで過程と傾向、原則という形で見てきたわけです。
そんな「やる気の無いヤツの相談なんてやめてしまえ」なんてことは言いませんよ。
ただ、「今はやめておこう」という判断が必要なのです。
タイミングは今じゃないということ。
本人が解決を本当に望んでいないときほどうまくいかない理由は無いのですから。
決められないのは無駄な感情が存在するから
そしてもう1つの問題。それが決められないということ。
これもまた「思考」と「模索」の段階で明確になります。
「思考」の段階で「嫌だな」や「不安だ」という感情面を相談することは悪いことではありません。
しかしながら、こんなときはうまくいきません。
今その人は「悩み」という事柄を見ているのではなく、自分の感情を見てものを言っているからです。
逆に「どんな〇〇があるかな?」なんて考えている場合は事柄自体を見ているので解決できる可能性が上がります。
解決のためにどれだけ「事柄」に目を向けられるかが大事です。
また「模索」でも同じ。
どれが「正解」かという部分に目がいき「不安」「嫌だ」と選択ができないことがあります。
この段階でも「どれが良いかな?」と選択肢自体に目を向けられていることが大事です。
選択できないのは「答え」を探すから
「思考」も「模索」も結局は不確定なものをイメージしている段階です。
結局は「解決」の段階でイメージがリアルに変わってきたり、全て終わってからの「結果論」でしか答えは無いからです。
それを「どれが正解か」ということで決めようとするから決められないのです。
この世の中には画一的な「答え」が準備されていることなんてなかなか無いものです。
だからそれを探すだけ無駄なんです。
けれども僕らが思考するのは主に子供の頃の生活内、特に「学校」です。
学校で準備されているのは決まった答えの出る問題がほとんど。
だから思考に答えが無いという経験をすることが少ないですよね。
結果大人になっても決められないなんてことになるわけです。
僕らは1番マシなのを選べるにすぎないのです。
それを知り受け入れるべきであるにも関わらず、選択できない人は一生懸命に「そんなはずはない。必ず良い結果の生まれる完璧な方法があるはずだ」と抗おうとするのです。
多くの人はこの話をすると「自分はそんなことはない」「完璧なことはないのだから」なんて物分りの良さそうな話をする人もいます。
ですが、実際にAかBという選択肢を与えられた時に他の選択肢は無いかと考えることはありませんか?
AとBは最大限考えた結果であるにも関わらずです。
僕にはそういった経験はありますよ。
わかっていても人間はそんなことを考えてしまうものだと僕は思います。
だからこそ「僕らは1番マシなのを選べるにすぎない」ということをよく肝に命じておく必要があると自分自身にも言い聞かせるようにしているのです。
選択肢を探すことも大事だが選択することが一番大事
少し今回は長くなってしまいましたね。
それだけ相談については考えることがいっぱいあるんですよね。
ただ、どの相談にも共通した仕組みがあるもんです。
今回の「悩みと反応の過程」なんかは多くが共通した流れをしていますしね。
また相談を受けるときはバイアスがかからない様に出来るだけフラットな状態で行う必要があることはみなさんもご存知のとおりだと思います。
だからこそ今回書いてきた本人の感情の出やすいところ、出ている感情がどの様に影響するかなどは予め知っておくと「感情」と「事実」のどちらに相談者が傾いているのかがよく分かると思います。
いずれにせよどんな時も「僕らは1番マシなのを選べるにすぎない」ということは肝に命じておきましょう。
1つひとつの日常生活内での選択の「良し悪し」なんて結局は死ぬ時の人生振り返りの時間では大した話題にはなりません。
むしろ「マシな選択」を早い段階で繰り返し行いながら、少しずつ修正を加えられる方が僕は自分らしい生き方ができると思いますけれどもね。
それでは、また。